ジョージ・ハリスンの超大作 『オール・シングス・マスト・パス』(2)

 さて、当時は高価だった(少年には特に)LPレコードですが、アナログ盤が見直されている現在です。今考えたら無理してでも買っておくべきだったかと後悔してます。

 ビートルズが解散した後、ジョージはデラニー&ボニーの英国ツアーにセッションギタリストとして参加しました。その時、エリック・クラプトンも同じツアーに参加しており、共にステージを盛り上げ、友情を深めました。また、アップル・レコードではプロデューサーとしても活躍し、バッドフィンガーや多くのアーティストたちのレコーディングをバックアップする事で自信と力をつけて行ったのです。

 ビートルズの一員として、ジョージは過去いくつかの楽曲を提供してきました。初期はアルバムのオマケ的な曲もありました。しかし中期、後期は「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」や「タックスマン」、あるいは「サムシング」や「ヒア・カムズ・ザ・サン」など自信作もありました。だがそれ以外にも、ジョージは何十曲ものオリジナルをコツコツと書いていたのです。それらの中にも、自分ではいい曲だと思っていても、アルバムの選曲会議ではいつもジョンとポールの曲ばかりが優先されて、ジョージの曲は放ったらかし。彼らの師匠のプロデューサーのサー・ジョージ・マーティンは、全くジョージの作曲能力を軽視していました。いつからかジョージは、よほどの事が無い限り自作曲を提出しなくなっていったのです。もしジョージをマーティンはじめFAB4のメンバーが違った扱いをしていたら、ビートルズはもっと違った作品群を出していたかも知れません。
まあ、歴史は変えられないですけどね。

 それでも彼はいじけずにずっと曲を書き続けていました。特にビートルズが解散してからは、自由に、好きなように曲と向き合える。ジョンやポールやマーティン・シニアに口出しされる事もなく、アレンジを勝手にいじられる事もない。考えてみたら15、16歳の頃から、いつも彼の音楽環境には二人の大天才が兄のように存在していました。いつも上から目線であれこれ指示をだす。はてはポール兄貴がリードギターまで弾きだす始末。
まあ、ジョージに言い様のない圧迫感が常にあったのは想像に難くないでしょう。

しかし、ビートルズの空中分解によって、彼の楽曲と才能が一挙に花開いたのです。
それがこのアルバム 『オール・シングス・マスト・パス』なのです。
つづく

The Shine Light Respectによるビートルズカバーはこちら↓ ↓ ↓ 良かったら、観てください!

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